[ カテゴリー » 堂々とまかり通っているニセモノ ]

焼き鳥にはかなり「豚肉」が混じっている

戦後間もない頃はスズメの丸焼きと称して鶏のヒヨコの丸焼きを出す店が多かったという。どちらも鳥には違いないから言われなければ分からなかったのだろう。

では今日、焼き鳥として売られているものの中に実は豚肉が混じっているのはどうか。厳密にいえば不当表示であるから消費者団体が抗議すれば公正取引委員会あたりが調査に乗り出す問題かもしれない(?)。しかし、これはいわば公然の秘密で客も承知の場合が多いのであまり問題にならないかもしれない。

焼き鳥のなかのハツ(心臓)やタン(舌)などは多くが豚肉と思っていい。鶏のモノがあんなに大きいわけかない。つまりは「焼きトン」なのだ。中には焼きトンと焼き鳥とをちゃんと区別して出している店もあるが体外は全て焼き鳥として客に出しているようだ。

そば屋の鴨南蛮は鴨肉でもないのにそのように称するのはおかしいと問題になり今では本当の鴨を使っている場合を除いては鳥南蛮とメニューが書き替えられたりしているが、こっちはまだ同じ鳥どうしだ。焼き鳥と焼きトンが混じっているほうが問題は大きいと思うのだが。それとももはや「焼き鳥」というのは肉の串焼き全体の料理名となり、材料は鳥でも豚でもいいのだろうか。

— posted by 本間 at 03:41 pm  

縄文杉は実は縄文時代の杉ではないかもしれない

鹿児島県の屋久島にある屋久杉の原生林は、縄文杉とも呼はれている。縄文時代の杉がそのまま生きているといわれているからだ。日本史のおさらいをすれば、弥生時代は紀元前三世紀頃に当たるから、縄文時代というのは、少なくとも5000年前である。そんな昔の杉が、果たして現存しているものかどうか。樹の年齢は、年輪を数えればわかるというが、屋久杉の場合はたとえ切っても数えられない。それに、何千年もの単位となると、年輪を数えただけでは正確とはいえないそうで、さまざまな測定方法がとられることになる。

九州大学のある教授は、保存されていた屋久杉の年輪をベースに、直径から樹齢を推定し、さらに気象史からもアプローチして、杉が発芽した年代を類推。こうして、7200年前、という結論を出した。ところが、これには世界中の学者から反論が殺到した。そんな長寿の樹は世界のどこにもない、だからありえない、というのである。そこで今度は、学習院大学の教授か農林水産省の依頼を受け、放射線炭素法という方法で樹齢を計算した。すると、最低でも2200年は経ているが、具体的な樹齢は決定できない、という結論が出た。もしかしたら3000年、5000年前かもしれないが、はっきりしないということだ。仮に最短の2200年だとすると、すでに弥生時代。縄文杉ではなく「弥生杉」になってしまう?

— posted by 本間 at 12:57 am  

 

おみやげ用の漬物は本場の味とはほど遠い?

日本に来た外国人の買い物につきあうと。家族や友人だちへの日本みやげとして、ヘンなものを買おうとするのにびっくりすることがある。日本人ならとても買わないようなものを「これは日本的だ」と喜んで買っていくのである。帰国すれば、多分、もらったほうも喜ぶのだろう。これと同じ状況は、日本各地の観光地を訪れる日本人にもあてはまる。地元の人はとても買わないようなものを、喜んで買っていくのが観光客なのだ。

日本各地には、その土地でとれる野菜を、その地方独自の方法で漬けた漬物がある。それが、おみやげ店で名産品として売られているわけだが、その多くは、本当の地元のものとはかなり違うらしい。京都のしば潰は、独特の赤いシソで色を出す。しかし、大原の里でつくったものでないと、その色は出ない。また、本物は渋味のある強い酸味がするが、これは食べなれない人にとっては、「マズイ」と感じるもの。だから、おみやげ用のものは、誰の口にも合うように味つけしてあり、色も着色しているとか。

広島菜漬にいたっては、おみやげ用は色も変わる。本来はかなり長く漬けておくため、べっこう色をして、独特の香りがしてすっぱいもの。もちろん地元の人たちは、日常的にそういうものを食べている。しかし、においが強いせいか観光客の評判はよくないので、浅漬にした緑色のきれいなものがおみやげ店では売られている。これなど、名前は同じでも、まったく違うものである。観光地の業者たちにしてみれば、全国から来る人たちにたくさん売ろうと工夫した結果なのだが、何やらおかしなことになっている。

— posted by 本間 at 12:53 am  

 

「全集」といいながら全部の作品が入っていない!?

作家になるのが夢という人はけっこういるらしいが、いざ作家になれたとしたら、その次の夢は、「全集」。これには、ふたつの意味がある。ひとつは「日本文学全集」に自分の作品が収録されること、もうひとつは自分の個人全集を出すこと。どちらも、名誉なことには違いない。読者にとっても、好きな作家の全集が出れば、それを揃えたくなるが、さて、「全集」とはいうものの、必ずしもすべての作品が収録されているわけではない。

だいたい、「日本文学全集」とか「世界文学全集」というが、日本文学全部が収まっているわけがない。世界にいたっては、もっと不可能である。これらは、「日本文学代表作集」とでもいうのが、正しい。不当表示だと消費者団体が怒らないのは、読者のほうも、本当に全部の日本文学が入っているわけではないことを、知っているからだ。では、個人全集はどうか。こちらは、出版社にその気さえあれば、すべての作品を収録することは可能である。

だが、残念ながら、すべての作品を納めた「全集」というのは、じつは非常に少ない。その理由は、まず作家が生きている間は、自分の気に入らないものは入れたがらない。また出版社としても、よほどの大作家でもないかぎり、何十巻もの全集を出しても売れないから、その代表作だけを集めて完成としたがる傾向がある。さらに、作家が亡くなってしまうと、原稿も、あるいは単行本や掲載された雑誌も残っていないなどの理由で、収録したくてもできない作品も出てくる。こうしたさまざまな理由で、「全集」とは名ばかりの「選集」ばかりが出回ることになるのだ。それなら、最初から「選集」なり「代表作集」とすればいいのに、やはり営業戦略を考えると「全集」のほうが売れるのだとか。

もっとも、小説や評論などだけでなく、日記や手紙など、その作家が「書いた」すべてのものを集めた「全集」も、ごくたまには出る。最近では、筑摩書房が出しか「二葉亭四迷全集」が真の意味での全集といえるもののひとつ。だが、そんな全集を買うのは、大きな図書館か研究者くらいで、出版社としては、ほとんどボランティアの文化事業のようなものなのだ。一般の読者には「全集という名の選集」で十分なのかもしれない。ちなみに、世界的には、旧ソ連や旧来ドイツが出していた「マルクス・エンゲルス全集」「レーニン全集」が、真の意味での全集の代表だが、これはまさに国家的事業としての出版だったからできたこと。今ではとても不可能だろう。

— posted by 本間 at 12:43 am  

 

イチゴジャムはリンゴから作られていたってホント?

果汁ゼロパーセントのオレンジジュースなんていうものが、炭酸飲料水によくある。何とかオレンジとか、何とかグレープといいながら、その味も香りも色も、すべて人工的につくったもの。しかし、これは飲むほうもそうと知ってて飲むのだから、消費者を騙しているわけでもない。では、イチゴジャムだと思って買ったものが、じつはイチゴではなく、リンゴを原料にしているとしたら、どうか。そんな面倒なことをしないで、最初からリンゴジャムとして売ればよさそうなものだが、ジャムのなかでは、何といってもイチゴジャムがよく売れるので、リンゴがイチゴに化けることがあるらしい。

ジャムになるリンゴは、台風などでせっかく実ったものが落ちてしまい、傷ついてしまったもの。味には変わりはないのだが、外見が悪いのでとてもそのままでは売れず、ジュースやジャムの原料として安く買い叩かれていくというわけだ。そのなかで、ジュースになるものはちゃんとリンゴジュースになれるのだが、ジャムへの道を歩むリンゴは、なぜかイチゴに変身させられてしまう。

ジャム用のリンゴは、イモやデンプンが加えられ、ドロッとしたジャムになっていく。さらに、イチゴの色や味を出すために、さまざまな食品添加物が加えられ、できあがり。イチゴを使えば、砂糖を加えるだけでジャムになるはずなのに、リンゴをイチゴに変身させるには、かなり手間がかかる。しかし、そうしたほうが安くつくというのだから、よくわからない世の中である。イチゴジャムにされてしまう、リンゴの気持ちは、誰にもわからない。

— posted by 本間 at 12:40 am