縄文杉は実は縄文時代の杉ではないかもしれない

鹿児島県の屋久島にある屋久杉の原生林は、縄文杉とも呼はれている。縄文時代の杉がそのまま生きているといわれているからだ。日本史のおさらいをすれば、弥生時代は紀元前三世紀頃に当たるから、縄文時代というのは、少なくとも5000年前である。そんな昔の杉が、果たして現存しているものかどうか。樹の年齢は、年輪を数えればわかるというが、屋久杉の場合はたとえ切っても数えられない。それに、何千年もの単位となると、年輪を数えただけでは正確とはいえないそうで、さまざまな測定方法がとられることになる。

九州大学のある教授は、保存されていた屋久杉の年輪をベースに、直径から樹齢を推定し、さらに気象史からもアプローチして、杉が発芽した年代を類推。こうして、7200年前、という結論を出した。ところが、これには世界中の学者から反論が殺到した。そんな長寿の樹は世界のどこにもない、だからありえない、というのである。そこで今度は、学習院大学の教授か農林水産省の依頼を受け、放射線炭素法という方法で樹齢を計算した。すると、最低でも2200年は経ているが、具体的な樹齢は決定できない、という結論が出た。もしかしたら3000年、5000年前かもしれないが、はっきりしないということだ。仮に最短の2200年だとすると、すでに弥生時代。縄文杉ではなく「弥生杉」になってしまう?

— posted by 本間 at 12:57 am  

 

おみやげ用の漬物は本場の味とはほど遠い?

日本に来た外国人の買い物につきあうと。家族や友人だちへの日本みやげとして、ヘンなものを買おうとするのにびっくりすることがある。日本人ならとても買わないようなものを「これは日本的だ」と喜んで買っていくのである。帰国すれば、多分、もらったほうも喜ぶのだろう。これと同じ状況は、日本各地の観光地を訪れる日本人にもあてはまる。地元の人はとても買わないようなものを、喜んで買っていくのが観光客なのだ。

日本各地には、その土地でとれる野菜を、その地方独自の方法で漬けた漬物がある。それが、おみやげ店で名産品として売られているわけだが、その多くは、本当の地元のものとはかなり違うらしい。京都のしば潰は、独特の赤いシソで色を出す。しかし、大原の里でつくったものでないと、その色は出ない。また、本物は渋味のある強い酸味がするが、これは食べなれない人にとっては、「マズイ」と感じるもの。だから、おみやげ用のものは、誰の口にも合うように味つけしてあり、色も着色しているとか。

広島菜漬にいたっては、おみやげ用は色も変わる。本来はかなり長く漬けておくため、べっこう色をして、独特の香りがしてすっぱいもの。もちろん地元の人たちは、日常的にそういうものを食べている。しかし、においが強いせいか観光客の評判はよくないので、浅漬にした緑色のきれいなものがおみやげ店では売られている。これなど、名前は同じでも、まったく違うものである。観光地の業者たちにしてみれば、全国から来る人たちにたくさん売ろうと工夫した結果なのだが、何やらおかしなことになっている。

— posted by 本間 at 12:53 am  

 

「全集」といいながら全部の作品が入っていない!?

作家になるのが夢という人はけっこういるらしいが、いざ作家になれたとしたら、その次の夢は、「全集」。これには、ふたつの意味がある。ひとつは「日本文学全集」に自分の作品が収録されること、もうひとつは自分の個人全集を出すこと。どちらも、名誉なことには違いない。読者にとっても、好きな作家の全集が出れば、それを揃えたくなるが、さて、「全集」とはいうものの、必ずしもすべての作品が収録されているわけではない。

だいたい、「日本文学全集」とか「世界文学全集」というが、日本文学全部が収まっているわけがない。世界にいたっては、もっと不可能である。これらは、「日本文学代表作集」とでもいうのが、正しい。不当表示だと消費者団体が怒らないのは、読者のほうも、本当に全部の日本文学が入っているわけではないことを、知っているからだ。では、個人全集はどうか。こちらは、出版社にその気さえあれば、すべての作品を収録することは可能である。

だが、残念ながら、すべての作品を納めた「全集」というのは、じつは非常に少ない。その理由は、まず作家が生きている間は、自分の気に入らないものは入れたがらない。また出版社としても、よほどの大作家でもないかぎり、何十巻もの全集を出しても売れないから、その代表作だけを集めて完成としたがる傾向がある。さらに、作家が亡くなってしまうと、原稿も、あるいは単行本や掲載された雑誌も残っていないなどの理由で、収録したくてもできない作品も出てくる。こうしたさまざまな理由で、「全集」とは名ばかりの「選集」ばかりが出回ることになるのだ。それなら、最初から「選集」なり「代表作集」とすればいいのに、やはり営業戦略を考えると「全集」のほうが売れるのだとか。

もっとも、小説や評論などだけでなく、日記や手紙など、その作家が「書いた」すべてのものを集めた「全集」も、ごくたまには出る。最近では、筑摩書房が出しか「二葉亭四迷全集」が真の意味での全集といえるもののひとつ。だが、そんな全集を買うのは、大きな図書館か研究者くらいで、出版社としては、ほとんどボランティアの文化事業のようなものなのだ。一般の読者には「全集という名の選集」で十分なのかもしれない。ちなみに、世界的には、旧ソ連や旧来ドイツが出していた「マルクス・エンゲルス全集」「レーニン全集」が、真の意味での全集の代表だが、これはまさに国家的事業としての出版だったからできたこと。今ではとても不可能だろう。

— posted by 本間 at 12:43 am  

 

イチゴジャムはリンゴから作られていたってホント?

果汁ゼロパーセントのオレンジジュースなんていうものが、炭酸飲料水によくある。何とかオレンジとか、何とかグレープといいながら、その味も香りも色も、すべて人工的につくったもの。しかし、これは飲むほうもそうと知ってて飲むのだから、消費者を騙しているわけでもない。では、イチゴジャムだと思って買ったものが、じつはイチゴではなく、リンゴを原料にしているとしたら、どうか。そんな面倒なことをしないで、最初からリンゴジャムとして売ればよさそうなものだが、ジャムのなかでは、何といってもイチゴジャムがよく売れるので、リンゴがイチゴに化けることがあるらしい。

ジャムになるリンゴは、台風などでせっかく実ったものが落ちてしまい、傷ついてしまったもの。味には変わりはないのだが、外見が悪いのでとてもそのままでは売れず、ジュースやジャムの原料として安く買い叩かれていくというわけだ。そのなかで、ジュースになるものはちゃんとリンゴジュースになれるのだが、ジャムへの道を歩むリンゴは、なぜかイチゴに変身させられてしまう。

ジャム用のリンゴは、イモやデンプンが加えられ、ドロッとしたジャムになっていく。さらに、イチゴの色や味を出すために、さまざまな食品添加物が加えられ、できあがり。イチゴを使えば、砂糖を加えるだけでジャムになるはずなのに、リンゴをイチゴに変身させるには、かなり手間がかかる。しかし、そうしたほうが安くつくというのだから、よくわからない世の中である。イチゴジャムにされてしまう、リンゴの気持ちは、誰にもわからない。

— posted by 本間 at 12:40 am  

 

偽物の宝石でも鑑定書は簡単に作れる?

宝石が本物かどうかを見分けるのは、素人ではまず無理。ニセモノのほうが人工的につくるだけあって、本物よりも美しかったりする。それに、本物のほうがキズもつきやすいので、キズがあるからニセモノともいえない。そこで頼りになるのは、鑑定書ということになる。ところが、この鑑定書もなかなかのクセモノ。本物には鑑定書がついている、ということは逆に考えれば、鑑定書がついていれば本物、ということになる。

そこに、悪い業者がつけこむ余地がある。鑑定書の偽造は論外としても、鑑定書は本物だが、宝石はニセモノ、という巧妙な手口もあるのだ。宝石の鑑定所は全国にいくつもある。ひとつの鑑定所に本物のダイヤモンドを持って行き、鑑定書をもらう。その同じ石を別の鑑定所に持って行き、また鑑定書をもらう。こうやって、ひとつの石で何枚もの鑑定書を手に入れることができるのだ。たとえば10枚の鑑定書が手に入ったら、よく似たニセモノを10個つくれば、それで鑑定書付きのニセモノが10個できるというしだい。

これとは別に、本物の宝石のなかにニセモノを混ぜるという手口もある。ひとつの指輪に、横にズラッと5つも6つもダイヤが並んだ「一文字」と呼ばれるものなど、よく目立つ石だけは本物だけど、そのまわりのものはすべてニセモノなんて場合もある。まさに、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)というやつだ。鑑定するほうも、すべての石を調べるわけではないらしく、ひとつかふたつが本物なら、それで鑑定書をつけてしまうこともあるらしい。要するに、信用のできる店で買うしかないのである。

— posted by 本間 at 12:35 am