「全集」といいながら全部の作品が入っていない!?

作家になるのが夢という人はけっこういるらしいが、いざ作家になれたとしたら、その次の夢は、「全集」。これには、ふたつの意味がある。ひとつは「日本文学全集」に自分の作品が収録されること、もうひとつは自分の個人全集を出すこと。どちらも、名誉なことには違いない。読者にとっても、好きな作家の全集が出れば、それを揃えたくなるが、さて、「全集」とはいうものの、必ずしもすべての作品が収録されているわけではない。

だいたい、「日本文学全集」とか「世界文学全集」というが、日本文学全部が収まっているわけがない。世界にいたっては、もっと不可能である。これらは、「日本文学代表作集」とでもいうのが、正しい。不当表示だと消費者団体が怒らないのは、読者のほうも、本当に全部の日本文学が入っているわけではないことを、知っているからだ。では、個人全集はどうか。こちらは、出版社にその気さえあれば、すべての作品を収録することは可能である。

だが、残念ながら、すべての作品を納めた「全集」というのは、じつは非常に少ない。その理由は、まず作家が生きている間は、自分の気に入らないものは入れたがらない。また出版社としても、よほどの大作家でもないかぎり、何十巻もの全集を出しても売れないから、その代表作だけを集めて完成としたがる傾向がある。さらに、作家が亡くなってしまうと、原稿も、あるいは単行本や掲載された雑誌も残っていないなどの理由で、収録したくてもできない作品も出てくる。こうしたさまざまな理由で、「全集」とは名ばかりの「選集」ばかりが出回ることになるのだ。それなら、最初から「選集」なり「代表作集」とすればいいのに、やはり営業戦略を考えると「全集」のほうが売れるのだとか。

もっとも、小説や評論などだけでなく、日記や手紙など、その作家が「書いた」すべてのものを集めた「全集」も、ごくたまには出る。最近では、筑摩書房が出しか「二葉亭四迷全集」が真の意味での全集といえるもののひとつ。だが、そんな全集を買うのは、大きな図書館か研究者くらいで、出版社としては、ほとんどボランティアの文化事業のようなものなのだ。一般の読者には「全集という名の選集」で十分なのかもしれない。ちなみに、世界的には、旧ソ連や旧来ドイツが出していた「マルクス・エンゲルス全集」「レーニン全集」が、真の意味での全集の代表だが、これはまさに国家的事業としての出版だったからできたこと。今ではとても不可能だろう。

— posted by 本間 at 12:43 am